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東日本大震災から10年(その2)


【東日本大震災から10年】(その2)

東日本大震災から今日で10年。
被災された地域の笑顔がもっともっと増えることを心から願っています。

(その1)からの続き。

《支援の輪は広がったものの…》
4月上旬時点では、3月11日に高山を出発してから、ほぼ被災地で過ごすこととなっていました。
多くの方にご協力いただき、気仙沼市南端の浜区避難所には大型のお風呂、洗濯施設、大型テレビを設置することができた他、炊き出し等の支援も多く届くようになり(飛騨地域からも、たこ焼き、飛騨牛の串焼きなどが届けられました。)、被災された方の笑顔が少しずつ増えてきたように感じていた頃、大きな悩みが残っていました。


《目の前に広がる瓦礫》
津波で被災してから、全く光景を変えることはありませんでした。
これを何とかしたい…けど、やるならボラセン立上げが必要。
避難所の方から「この瓦礫、いつになったら無くなるんだろうねぇ。」という言葉を聞くこともあり、そのたびにつらい気持ちになりました。

また、当時、取材をしていた新聞記者さんからもこんな言葉がありました。
「川上さん、まさかこの瓦礫をこのままにして帰るつもりじゃないでしょうね。避難所の皆さんの中には、早く目の前から瓦礫が無くなって欲しいと、川上さんに期待している方もみえますよ。」と…。

《覚悟を決めて…》
気仙沼市本吉町南部の瓦礫だけでも相当量の瓦礫がありました。
当時、社協が運営しているボラセンに相談しても「瓦礫の撤去は行わない方針」とのことで、誰にも頼ることができない状態。

…が、出した結論は「災害ボラセンを立ち上げて、瓦礫を無くすぞ」。

早速、浜区避難所を管理していた気仙沼市役所の職員さんと地元の自治会長さんに相談し、避難所併設の災害ボランティアセンターを立ち上げることに…。
名前は「はまセン」(気仙沼市浜区災害ボランティアセンター)。


《地域の皆さんに助けられて…》
この時、本当にありがたかったのは、避難所の皆さんや地域の皆さんが親身になって協力してくださったことでした。
これが無かったら、『はまセン』の運営は絶対に成り立ちませんでした。
避難所の皆さんや被災地域の皆さんに支えられて災害ボランティアセンターを立ち上げることになるとは、夢にも思っていませんでした。

避難所や地域の皆さんとボランティアが一緒に食事をとり、
避難所や地域の皆さんとボランティアが一緒にお風呂に入ることもあり、
避難所や地域の皆さんとボランティアが避難所で枕を並べて寝ることもあり、
避難所や地域の皆さんとボランティアが一緒に笑うことができるボラセン。



毎朝8時に、
避難所や地域の皆さんと一緒にミーティングを行い、一緒にラジオ体操。
夕方にはもう一度ミーティング。

《被災地一番で瓦礫撤去》
避難所や地域の皆さんに祝福されて、そこで結婚式をあげるボランティアもいました。
そして、このボラセンには、全国から重機、ダンプ、ユニック、チェンソーなど、様々な機材を持って参加してくれるボランティアが沢山集まってくれました。

そのおかげで、
「東北の被災地で最も早く被災地の瓦礫を除去できた地域」となることができました。

こんなボランティアセンターをつくることができたのは、
避難所や地域の皆さんの優しさがあったからだと思っています。

本当にありがとうございました。
被災された地域の笑顔が、これからもっともっと増えることを心から祈っています。

(おわり)

当時のNewsweek日本語電子版の記事です。
記者さんからの視点もご覧ください。
https://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2011/06/post-224.php  

東日本大震災から10年(その1)


【東日本大震災から10年】(その1)

東日本大震災から今日で10年。
被災された地域の笑顔がもっともっと増えることを心から願っています。

被災地までは全区間高規格道路で行くことができるようになりました。
でも、まだまだ復興道半ばであり、厳しい部分が多く残っています。
福島の復興事業の基地となったJ-ビレッジも再びサッカーができるようになりました。
でも、原発事故の影響は大きく残っています。

今も被災地の皆さんと交流を続けさせてもらっていますが、東北の皆さんは本当に優しい方が多く、そして強い方が多いと感じています。
当時、支援活動を行っていても、「被災地の皆さんに元気づけられた」と語るボランティアが沢山いました。
自分の記録を見ると、発災後1年間は200日以上東北へ支援活動に出掛けていたようですが、被災されながらも懸命に頑張る姿に感動して通い続け(泊り続けた?)ました。

10年前を思い出すと…

3月11日(発災当日)午後9時半、炊き出し用の大釜と給湯器をトラックに載せて、高山を出発。
福島県の原発近く(3キロ程度)では、着の身着のままの状態でバスに乗せられ避難する方とすれ違うことも…。
(そのバスに乗った方は、そのまま長い間自宅へ戻れなかったようです。)

南相馬市に到着後、市長と支援活動について打合せを行い、社協の方と一緒に炊き出しと災害ボラセン準備を進めました。
しかし福島第一原発が爆発…。

高山へ一旦戻り、すぐに支援物資を大型トラックに満載して再び東北へ(3/14)。
本当に残念でしたが福島県南相馬市への支援を諦め、南三陸町を目指しました。
途中からは、停電地域、携帯がつながらない地域。


避難所となっている学校で支援物資をおろした後、南三陸町長と面会。
「重機を動かす軽油が全く足らない。」との話があったため、軽油を求めて日本海側まで走ったものの、既にガソリンスタンドも供給できない状態に…。
高山へ戻り、多くの皆さんにご協力いただいて軽油3,000ℓと灯油2,000ℓを南三陸町に届け、灯油は町内の避難所で配付。

その後、支援物資を調達して気仙沼市南部から石巻市(大川小学校の川向かい)まで物資配布しながら支援が届いていないところを調査したところ、気仙沼市南端の浜区と南三陸町北部歌津地域は道路寸断等により支援が届きにくい状態にあるとわかったため、活動拠点を浜区避難所に移動。
このとき、配付物資で最も喜ばれたのは、避難所に敷く「断熱シート」でした。

浜区避難所から最初にお願いされたのは「お風呂」でした。
発電機で井戸から水を汲み上げ、災害用給湯器と、魚河岸等で使用する大きな容器を使用して大型のお風呂を作成。
1,000ℓの浴槽ですので、男性が4人足をのばして一緒に入れるサイズ。
3月23日、停電のため満点の星がきれいに見える夜、久しぶりのお風呂ではしゃぐ小さなお子さんのキャッキャッという声が響き渡っていました。

その後、自分の選挙があったため、3日間だけ地元に戻りました。

4月に入り、支援活動への協力募集に対し、医師、歯科医師、薬剤師などが避難所をまわって健康状態をチェック。
さらに支援の輪は広がり、炊き出し、理容美容など、多くのボランティアが避難所をまわって支援活動を実施してくださいました。


お風呂については、南三陸町歌津北部からも依頼が入り、早速2つ目を作成。(4月下旬)
翌日、1ヶ月半ぶりにお風呂に入った方から、
「体をこすったら、自分の体は消しゴムみたいに垢がボロボロ。すごく気持ち良かったよ。」
という言葉と笑顔が返ってきました。

まだ毎日のように亡くなった方が見つかっていた頃でしたが、本当に厳しい状態の中、少しずつ笑顔が増えていったのを覚えています。

(その②につづく)  

東日本大震災支援活動①はまセン設置以前



東日本大震災被災地では多くの命やものが津波に飲み込まれた。




震災当日(3月11日)の夜、高山市を出発して福島県南相馬市に到着。炊き出しや災害ボラセン設置など支援活動を始めたが、原発事故により退避した。
南相馬市への支援活動は困難だとの判断から、高山へ戻った翌日、集められた物資を積んで宮城県南三陸町へ向かった。




南三陸町長から「重機を動かす軽油が足らない」との要請があったため、軽油3,000リットルと灯油2,000リットルを南三陸町に届け、灯油は町内の避難所で配布。




支援が届いていない地域を調査したところ、南三陸町北部の歌津地域と気仙沼市最南端部の浜区が道路寸断等により支援が届きにくい状態にあるとわかったため、活動拠点を浜区避難所に移動。
支援活動への協力募集に対し、医師、歯科医師、薬剤師などが協力してくださり、避難所をまわって健康状態をチェックしてもらった。





支援の輪は広がり、炊き出し、理容美容など、多くのボランティアが避難所をまわって支援活動を実施。




浜区避難所で最初に求められた一つが「お風呂」だった。
水は、使われていない井戸からポンプでくみあげ、高山市から持ち込んだ灯油給湯器を使って加熱。
浴槽は、魚河岸などで使われていた1,000リットルのタンクを使用。
3月23日に入浴可能となり、その後、気仙沼で2ヶ所、南三陸町で2ヶ所のお風呂をつくった。
  

東日本大震災支援活動②はまセン(小泉浜災害ボランティアセンター)



浜区避難所の前で「はまセン(小泉浜災害ボランティアセンター)」を開設。
民間主体のボラセンであったため、当時、他のボラセンではやらなかった「がれき処理」まで実施。「ガテン系ボラ」も多く参加した。




この家屋では行方不明の家族が…。




解体しながら、行方不明者捜索も実施。だが、行方不明の方を見つけることはできなかった。
その後、はまセン活動中に「見つかった」という報告を受けることはなかった。





どこに家があったのかもわからなくなるくらいに破壊されていたところへボランティアを派遣。




全国からボランティアが続々集まって来た。




チェンソーなども使用しながら、全て解体した。




お隣、南三陸町歌津地区の被災者からもがれき処理の依頼が入った。
これは、同じ災害ボランティアセンターでも、「がれき処理」を行うところが非常に少なかったため。
この現場は、バス1台のグループが2日間で全て片付けた。





どこに何があったのか、全くわからなくなっていた現場も少なくなかった。




がれきは重機で大分別し、人の手で小分別を行った。その後、気仙沼市や南三陸町の廃棄物分別基準に沿って排出したため、「がれきの山問題」は生じることがなかった。
また、浜区近隣は、宮城県で最も早くがれき処理が終了した。





約15,000名のボランティアと共に進めたがれき処理の活動は6月下旬に終了。




翌年、宮城県知事から感謝状が届いた。活動にご協力いただいた全ての皆さま、本当にありがとうございました。
  

東日本大震災支援活動③南三陸町の大型入浴施設



6月下旬、はまセンのがれき処理活動を終えようとしていたところへ南三陸町役場から「自衛隊が運営しているお風呂が撤退する。その後、入浴施設を新たにつくって運営してくれないか。」との相談が入った。




相談を受けてから5日後、南三陸町の仮設役場裏に、大型入浴施設「はまセン飛騨高山の湯」を設置。




浴槽は、これまで他の入浴施設で使用していた水槽を新たに4つ購入。
男性用1,000リットル×2、女性用1,000リットル×2、合計4,000リットルのお風呂とした。
持ち込んだ給湯器では熱量が足らなかったため、給湯器も新たに購入。





多くの被災された方にご利用いただきました。
このお風呂に入った子ども達も、笑顔で避難所に帰っていきました。
8月31日まで運営し、仮設住宅への入居が始まったことで運営を終了させていただきました。

この事業にご協力いただいた全ての皆さま、本当にありがとうございました。
  

東日本大震災支援活動④仮設住宅支援



はまセンの各種活動を終えた後も、宮城県・福島県の仮設住宅を訪問し、炊き出し等を実施。
ひきこもりがちな被災者にもできるだけ参加していただくことを心掛けた。





仮設住宅に野菜のプランターを配り、食べていただく事業も行った。